前回、第8話では、私が介護の仕事に出会うまでを書きました。
でも、その介護の仕事にたどり着くまでには、長い遠回りがありました。
今日は、その話をしたいと思います。
私は以前にも書きましたが、高校を卒業して札幌へ就職しました。
車の整備工として働き始めたのですが、正直に言うと車が好きではありませんでした。
最後まで就職先が決まらず、高校の先生が一生懸命探してくださった会社です。
それなのに私は、その期待に応えようとはしませんでした。
仕事を覚えようという気持ちもなく、毎日がどこか上の空でした。
今振り返ると、本当に申し訳ないことをしたと思います。
一年も経たないうちに退職しました。
もちろん、遊んで暮らせるわけではありません。
すぐに次の仕事を探しました。
あの頃の私は、「自分は何をしたいのか」が分からないまま、ただ働いていたように思います。
そして、この頃から、五十年前に別れた彼女との距離も少しずつ遠くなっていきました。
二十一歳になった頃、一人の自衛隊広報官が私のもとを訪ねてきました。
何十年も後になって父から聞いた話ですが、叔父が自衛隊に勤めており、父が「息子を頼む」と相談してくれていたそうです。
その縁が、私を自衛隊へ導いてくれました。
私は迷いませんでした。
将来への不安もありましたし、「ここでもう一度頑張ってみよう」という気持ちもありました。
二十一歳の十月。
私は札幌の自衛隊へ入隊しました。
ここで人生最初の大きな転機が訪れます。
前期教育隊では約二百人の新隊員の中から数人しか選ばれない優秀賞をいただきました。
「俺にも、やればできるんだ。」
そんな気持ちでした。
その自信を胸に旭川での後期教育へ進み、そこでも四十人ほどの中で一番の成績を残しました。
一般部隊へ配属されると、期待されていることが自分でも分かりました。
期待されることが、嬉しかったのです。
その後、陸曹試験を受けました。
一度目は勉強もせずに受験し、当然のように不合格でした。
幹部から厳しく叱られました。
「勉強もしないで受かるわけがない。」
その言葉は、そのとおりでした。
二度目は必死に勉強し、合格しました。
さらに教育課程へ進みましたが、最後の訓練の日に高熱を出しました。
三十七度七分。
訓練を休みたくありませんでした。
体温をごまかして参加しました。
走っている途中で意識を失い、気が付くと病院のベッドの上でした。
診断は「はしか」。
終業式にも出席できず、全国へ帰っていく同期たちにも別れを言えませんでした。
あれだけ頑張ってきた教育課程は、七番くらいの成績で終わりました。
もし、あの日熱を出さなかったら。
そんなことを考えた時期もありました。
でも、それも人生です。
やがて三等陸曹となり、その後は二等陸曹にも一回で昇任しました。
今振り返っても、自衛隊生活の前半十年は、本当に順調でした。
そして三十四歳。
人生二度目の大きな転機が訪れます。
幹部試験でした。
この試験には年齢制限があり、私にとって最後の挑戦でした。
今までで一番勉強したと思います。
睡眠時間を削り、本気で合格を目指しました。
試験当日。
忘れもしません。
私は、それまで経験したことのないほど緊張していました。
試験問題を開いた瞬間、頭が真っ白になりました。
問題が読めないのです。
白紙に見えました。
何とか気持ちを落ち着かせ、最後まで書き終えました。
でも、部屋を出た瞬間に分かりました。
「駄目だった。」
発表の日。
同じ部隊から六人が受験していました。
朝礼で名前が呼ばれていきます。
一人。
また一人。
五人の名前が呼ばれました。
呼ばれなかったのは、私だけでした。
あの時の気持ちは、今でもうまく言葉にできません。
恥ずかしいでもない。
悔しいでもない。
ただ一つだけ思いました。
「ここからいなくなりたい。」
私はすぐに配置換えを願い出ました。
今思えば、それが良かったのか悪かったのかは分かりません。
ただ、一つだけ言えることがあります。
あの日を境に、私の人生は少しずつ音を立てて変わり始めました。
借金。
離婚。
そして、ギャンブル。
この頃の私は、まだ気付いていませんでした。
自分が長い闇の中へ足を踏み入れようとしていることを。
(つづく)
70歳の今だから思うこと
若い頃の私は、「努力すれば人生は思いどおりになる」と信じていました。
でも七十歳になって振り返ると、人生は思いどおりにならないことの方が多かったように思います。
それでも、あの日の失敗があったからこそ、今の私があります。
人生には、消したい出来事もあります。
でも、その出来事まで含めて今の自分ができているのだと、ようやく思えるようになりました。