一心不乱に生きた昭和の母
私の母は、昭和という時代を一心不乱に生きた人だった。
生涯で勤めた会社は三社。
そのすべての会社から感謝状をいただいていた。
病気で仕事を休んだこともほとんどなかった。
派手な生き方ではない。
ただ、自分に与えられた仕事を黙々とやり続ける。
そんな母だった。
友人は決して多くはなかった。
しかし、一度心を許した人とは一生付き合う人だった。
母の葬儀の日、その友人たちが駆けつけてくれた。
私はその姿を見て、「母は幸せな人生だったのかもしれない」と初めて思った。
最後まで愚痴を言わなかった母
母は肺がんだった。
余命を告げられた日、一度だけ涙を流した。
しかし、それ以降は亡くなる日まで、一度も涙を見せなかった。
愚痴も言わなかった。
病室では四人部屋の中心になり、周りの人たちを励ましていた。
亡くなる数か月前には、自ら外泊許可を取り、みんなで温泉へ行こうと音頭まで取った。
「病人」という言葉が似合わない人だった。
私はその強さに驚かされるばかりだった。
私にできた親孝行
私は自衛隊を退職するとき、周囲には休暇を取ったことにして、毎日のように病院へ通った。
私にできる親孝行は、それしか思いつかなかった。
もっと何かできたのではないか。
そう考えることもある。
それでも、あの時の私には精一杯だった。
だから後悔はない。
朝四時のチャイム
母が亡くなる朝、不思議な出来事があった。
午前四時頃、玄関のチャイムが鳴った。
急いで玄関を開けたが、誰もいない。
「いたずらだろうか。」
そう思った、その直後だった。
病院から電話が鳴った。
「危ないので、すぐ来てください。」
慌てて病院へ向かった。
病室に入ると、母は酸素マスクをつけ、肺から水を抜く管が入り、苦しそうに息をしていた。
言葉を交わすことはできなかった。
私は母の手を握り続けた。
子どもの頃以来、母の手を握った記憶はない。
どれほど時間が過ぎたのか分からない。
母は大きく目を開き、静かに息を引き取った。
苦しそうだった表情は、時間が経つにつれ、不思議なくらい穏やかな顔へと変わっていった。
その表情だけは、今でも鮮明に覚えている。
母が最後まで守ったもの
母が亡くなった後、遺品を整理していた。
その中に、私たち夫婦の結婚式のアルバムがあった。
開いて驚いた。
私の隣に写っていた妻の写真だけが、きれいに切り抜かれていた。
その後のページも同じだった。
その時は理由が分からなかった。
後になって父から聞いた。
母のところへ、妻から時々電話があり、
「お金を貸してほしい。」
「私の悪口。」
そんな話をしていたそうだ。
私は、そのことを何も知らなかった。
父は言った。
「お母さんは、お前たちの家庭に波風を立てたくないと言っていた。」
「孫がかわいそうだから、お前には何も言うな、と。」
母は怒っていたのだと思う。
悲しかったのだと思う。
それでも、その思いを私にぶつけることはなかった。
最後まで家族を守ろうとしてくれていた。
写真が語るもの
第3話で私は、卒業アルバムから一人の女性の写真を切り抜いていたことを書いた。
そして今度は、母が結婚アルバムから妻の写真を切り抜いていたことを知った。
理由は違うのだろう。
それでも今になって思う。
私も母も、言葉では伝えられなかった思いを、写真という形に残していたのかもしれない。
本当のことは、もう誰にも分からない。
しかし、切り抜かれた写真だけは、今も静かに残っている。
70歳の私から、母へ
あなたは多くを語る人ではありませんでした。
いつも背中で教えてくれました。
働くこと。
責任を果たすこと。
人との縁を大切にすること。
そして、家族を守ること。
70歳になった今になって、その意味が少しだけ分かってきました。
ありがとう、お母さん。
私は、あなたの息子で良かったと思っています。
(つづく)